『aftersun/アフターサン』観た
映画『aftersun/アフターサン』観た。
大人ってなんなんだろう。本当は大人なんていないのかもしれない。知らず知らずのうちにみんなででっちあげてしまった共同幻想で、うちらみんなしてその自縄自縛になってるのかも。
11歳の娘ソフィと、まもなく31歳の誕生日を迎える父カラムが2人で過ごす夏休みの記録。
記録というのは喩えじゃなく、旅行中に回していたハンディカムの映像を大人になった娘が見返す形で物語が進行する。
2人はスコットランド人で、旅先はトルコのリゾート地。
プールに入ったり日向でくつろいだり、ビリヤードをしたりゲーセンでレーシングゲームをやったり、とにかく劇中のほとんどの時間は親子が旅先で遊ぶ様子だった。
この親子の距離感が本当に心地いい。リゾート地の開放的な背景もあいまって、ほどよい幸福感を湛えた画がゆったりと流れていく。
ひたすらに他人の旅行する姿を見守るのは『15時17分、パリ行き』以来の体験だけど、あれくらい長くかかるとしてもストレスに感じない。ずっと見ていたいと思わされる。ただこの映画はそれだけじゃない。
他の旅行客からカラムはソフィの兄だと勘違いされる。この物語の核心を突くシーン。別の言い方をすれば、カラムというキャラクターを一言で表現している。つまり大人になりきれていない。
ソフィから「11歳の誕生日に何をしたか」を訊かれて、カラムは何度かはぐらかしたあと、けっして幸福とはいえない思い出を語る。
十分に子供をやれなかった人は十分に大人をやるのが難しい。満たされなさの負債が歳を重ねてから響いてくる。世界中、すべての時代のアダルトチルドレンが向き合わされる問題。"普通"の家族がわからないなりに、彼は父親たろうとする。
劇中彼は何か特別親として失格な言動をしていない。けれど頼もしくは見えない。かつての自分がかけてほしかった言葉を噛み締めるように娘に贈る。娘を通して自分のインナーチャイルドに言い聞かせている。そのワンバウンドはきっと、大人になった彼女には見抜かれている。
彼は地元を自分が帰る場所だと思えていないとも話した。ここでもまた帰属意識が宙ぶらりんになっている。
そうした彼の内面にある澱みは、たびたび挿入される彼1人きりのカットで抽象的に表現される。
彼がシャワールームで、路傍で、ベッドでひとり過ごすやぶれかぶれな姿、視覚的な情報が説明の全部で、言葉を尽くしてその正体が詳らかにされることはない。それは本題ではないんだろう。
どうして・どういうふうに悲しいかはどうでもよくて、ただここに悲しい男がいる。それがこの物語。今この世界によくある話でもある。内面のままならなさをうまく処理できない男というのは、情けないけどまったく珍しい存在じゃない。情けないなんて思ってる場合じゃないんだろうな。
歳の近い旅行客たちとの交流によって揺れ動くソフィの描写が眩しい。プレティーンらしい好奇心、焦燥感、誰もが心当たりのある"ある時点"。自然すぎて本気でホームビデオと錯覚する瞬間すらあった。フランキー・コリオの演技は怖いくらいすごい。
そういったソフィの春機発動期のきらめきも、見方次第ではカラムの煩悶を陰影際立たせるために用意された光源に思える。
カラムが苛まれるのはミッドライフ・クライシス(中年の危機)じゃない。そのうんと手前、青年期を彼はまだ終わらせていない。年相応の悩みにぶち当たることすらできない。
カラムにかつて何があったのか、具体的にはわからない。
カラムがその後どうなったのかもわからない。
ただ、ままならない1人の人間の夏を見届ける。それだけ。そのための物語だったんだと思っている。
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