『君たちはどう生きるか』の話の話

「解釈」というカルチャーの話、今多くの人が口にしている「あのキャラクターは鈴木敏夫である」「高畑勲である」という語り方の話
ヒラギノ游ゴ 2023.07.18
誰でも

このテキストに『君たちはどう生きるか』のネタバラシはない

作品の中身の話はしないからだ。

ここで話したいのは、あの作品について人が語る姿を通して感じたこと。ただ、ずっと前から断続的に感じてきていて、今回のことは決定打にすぎない。

「解釈」というカルチャーの話、今多くの人が口にしている「あのキャラクターは鈴木敏夫である」「高畑勲である」という語り方の話をしたい。

『君たちはどう生きるか』を鑑賞した人のしたためたテキストはすでに相当数存在していて、それに目を通すこともまた鑑賞体験の一部と化している。それはこの作品に限ったことじゃなく、ソーシャルメディアの大衆化以降の日常風景といえる。宝探しのように、まるで自分の感想が自分の外側にあるかのように、最も自分の脳に収まりのいい他者のテキストを求めネットの海にくり出す。深く広く隈なく探索するコンピュータ・カウボーイたちの姿は、まるで自力での感想の言語化を何かの罰とでも見做しているかのように見える。

このテキストの結論をぎゅっと凝縮すれば"自分はこう読み取った"を"こういう意図で作られた"と断定形で書くのは違うでしょ、ということになる。そういう語り口で書かれたテキストの多さにつくづく辟易してきて、いよいよまずいんじゃないのか、という話。

このシーンはかつて作者がインタビューで語った幼少期の体験が基になっている、と思う。

台詞としては書かれていないが、実はキャラクターAはキャラクターBに対してこういう感情を持っている、と思う。

作中で明示されていないニュアンスを見出す「解釈」というカルチャーは、もっぱらアニメオタクのファンダムにおいて醸成されてきたらしい。このカギカッコ付きのものと普遍的な語彙としての解釈との区別を、そろそろ明確にしておく必要がないだろうか。

というのも、「解釈」においては"〜と思う"が抜けている場面があまりにも多いから。

"願い”を乗せるとまずいことになる。

事実と誤認させる可能性はもちろんだけれどそれ以上に、おざなりなboundary(自他の境界)によって創作物がカジュアルに侵犯されることに危機感を覚える。呼吸をするようにやられているそれは、けっこうえげつないことなんじゃないのか。

解釈は解釈した側の中にある。作品の中にはない

『少女革命ウテナ』にフェミニズム的な思索の余地と見做せる描写があること、クィアなニュアンスを感じ取れることについて、「本当にそう」しか言うことがない。

ただ仮に、制作陣はフェミニストとしての豊富な知見を備えているはずだ、フェミニズム的な目論見を持って制作されたに違いないと断じる手合いがいるとしたら「ちょっと待ってよ」となる。

制作者のひとりがカミングアウトという概念を茶化すようなおこないをしたとき、落胆するとしても「あなたほどの人がなぜ」は出発点が違う。はなから我々が求めるような素地のある作り手だっただろうか? 確実に?

仕事として批評をするときに心掛けているのは語尾を長くすること。

「〜と見做すこともできる」「〜として読み解いた」「〜として機能する」「〜と捉えられる」こんな感じ。

画面に映っていないこと、文中に書いていないことを語るうえで超えてはならない一線。

でないと単純に嘘になる。嘘はつかないほうがいい。

本当にシンプルな話で、もうこれで言いたいことの8割は言い終わった。

付け足すならば、今回やられているような鈴木敏夫や高畑勲を引き合いに出す語りについて。どこまで行っても他者のプライベートに踏み込む物言いであるということについて、エクスキューズがあってしかるべきだろう。そこのところについてboundaryを引いたうえで書かれていると思えるものはあまりなかった。少なくとも視認できる濃さの線はあまりなかった。

そういった書き手たちが頼りにしているのは、メディアを介して垣間見える程度の、本人たちがプロモーション上見せていいと思った範囲、あるいはコントロールしきれず事故的に漏れ出てしまった部分。そのつぎはぎが本人たちそのものであるはずがない。それを断定形で語るなんてあんまりじゃないかと思うのだ。

なぜこんなえげつない行為がいともたやすくおこなわれるのかを考えたときに思い当たるのが、top of the headじゃない、つまり"用意してきた"んじゃないかということだ。

宮崎駿の集大成ともいえる作品について、彼と縁深い鈴木敏夫や高畑勲と結びつけた「解釈」は、大衆にとってたまらないシズル感がある。見るからに"バズりそう"だ。

観る前からなにかしらを鈴木敏夫や高畑勲になぞらえるつもりでいたんじゃないのか、と感じてしまうのだ。しかもそれが、打算ならまだしも無意識的にやられているのだとしたら。

書き手たちに対する「お前バズろうとしてんだろ」という意地悪な気持ちがなくはない。先にテレビに出はじめたお笑い芸人が”かかってる”同期に対して「お前今日売れる気やん!」と茶化す、あの光景がよぎる。

ただ、そういうバズに最適化した言説に、知らず知らず引っ張られてきていないか? ということを話しておきたい。バイアスの存在を考えておきたいのだ。

映画の鑑賞後にネットで他人の感想の波を泳ぐことが一般化した今の時代らしいフィルタがかかっているんじゃないか。フィルタを外した目でよく見ておくれ。その「解釈」がまことであったか。

そしてわざわざ”用意してき”てまで感想を書きたい情動を駆り立てるものがあるとしたら、やっぱり「いいね」というUXのせいなんだろう。人間性に帰結させるのは違う。構造で解決できるはずのことが、人間個々の問題に回収されるケースをこれ以上増やしたくない。我々は自発的にネットを離脱する時間をもっと慈しんだほうがいい。

"願い"を乗せたくなるのは痛いほどわかるつもり。こんな時代だ。願ってもいないとやってられない。でもここまで書いてきたようなことは、その手のやってられなさによって免責されるものじゃない。

解釈は解釈した側の中にある。作品の中にはない。2回目。

スタッフロールに載っていないいちファンの「解釈」は、どこまで行っても一方通行、パラソーシャル関係だ。稀に作品がファンダムの「解釈」に応答することもある。でもそれは道が対面通行に変化したのではなくて、別の一方通行の道が向こうから伸びてきたということなんだろう。

締めそうになったけど、最後に「解釈」は「解釈」としてかけがえのないものだということに触れておかないとと思い直した。作品世界に没入するとき、その地平を歩くうえで信頼できる指針になる。だからこそ切り分けてそれぞれ別々に大事にしたい。

無料で「ヒラギノ游ゴのthe Letter」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら